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小学生の山田直輝と交わした2つの約束【選手コラム】(浦レポ)
(取材・文)河合貴子
あの日の約束を、決して忘れない
あの怪我さえなかったら山田直輝選手のサッカー人生は、もっと輝かしいものになっていたに違いない。2010年1月6日、アジアカップ最終予選・イエメン戦での悲劇が発端であった。悪質なプレーで右腓骨骨折をして全治約3ヶ月と診断され、リハビリ生活を余儀なくされてしまった。
そして、ようやく復帰したかと思えばシーズン2度目となる右腓骨骨折でまたもや戦線離脱。これからという輝かしい未来が、長期離脱で苦しむプロ2年目であった。
1年目は公式戦26試合出場していたが、わずか4試合(リーグ戦3試合。カップ戦1試合)だけの出場であった。
怪我から復帰した山田選手は、自身の持っている輝きを取り戻すかのように、練習中から豊富な運動量に拍車をかける山田選手であったが、この1年間のブランクは大きかった。
だが、逆境を乗り越えて少しずつ本来の姿を取り戻し始めた。山田選手には、大きな夢があったのだ。ロンドンオリンピック出場だ!
「ワールドカップは、4年に一度やってくる。オリンピックも4年に一度だが、年齢制限があるから一生に一度なんだよ。浦和で結果を残し、認められてU-23日本代表としてロンドンにいく」と目を輝かせた。
しかし、またもや山田選手に悲劇が訪れた。2012年3月20日、ナビスコ杯仙台戦で左膝前十字靱帯損傷。全治約6ヶ月。ロンドンへの夢が途絶えた・・・。
苦しいリハビリ生活であったが、復帰してから山田選手はもっと苦しむことになったのだ。試合で闘うフィジカル面はもちろんであるが、何よりも思い描くプレーと実際のプレーとのギャップは計り知れないものであった。
「試合に出たい。試合に出れば、本来の自分を取り戻せる。試合でしか経験できないことがたくさんある」と苦悩する日々を過ごしていた。だが、そんな山田選手との思いとは裏腹に、試合からも遠ざかり2013年は公式戦5試合、2014年も5試合と不本意なシーズンを過ごしていたのだ。
そして、山田選手は「この先、どこでやろうとも浦和でプレーすることが、一番の幸せ。ずっと浦和でプレーをすることを胸に、小学校のころから、いや、物心がついたころから、このチームしかなかった。ここで、試合に出られることが一番の幸せだ。リーグタイトルを獲ることが、夢なんで、それを叶えるためにやって行かないといけない」と試合出場機会を求めて、浦和を離れる決意をした。
湘南へのレンタル移籍は、プロ選手として試合経験を積むだけでなく、浦和を優勝させる選手になるためであった。
レッズを優勝させる選手になる
そこには、山田選手がまだ小学生の頃に交わした約束があったからだと確信した。
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