今回、宇都宮徹壱WM編集部の許可を頂き、有料記事の一部を転載させて頂きます。
「ミシャ・サッカーの継承者」として想うこと 杉浦大輔(通訳・指導者)インタビュー<2/2>(宇都宮徹壱WM)
■なぜ広島から多くの選手を獲得したのか?
――浦和での最初のシーズン(12年)、開幕戦の相手は広島でした。いきなりアウエーで、古巣との対決となったわけですが。
杉浦 個人的には「このタイミングで?」というのはありましたけど、盛り上げるためのリーグ側の意図的なマッチメーキングだったのかなと。そして絶対に負けたくないという思いもありましたね。確か0-1で負けたと思いますが、この時はチームの力の差を感じました。積み重ねてきた年月が違いますから、当然といえば当然ですが。
――前年は広島が7位、浦和は15位でしたしね。特に浦和での1年目ということで、戦い方も慎重な感じだったのでしょうか?
杉浦 やっぱり浦和はビッグクラブなので、ある程度は結果を残していかないといけないというのが、監督の頭にあったと思うんですよ。それもあって1年目は、現実的な戦い方も選択していたという印象です。もちろん浦和でも「いかに攻めるか」というのを常に求めながら練習はするんですけど、きちんと結果を残しながらチームづくりをしていくという意識はあったと思います。
――その甲斐もあって1年目は3位という成績でした。サポーターにとっても満足できる結果だったと思いますが。
杉浦 大満足な結果だったと思いますね。多くのサポーターは、ミシャのことを好意的に受け止めてくれたと思います。
――浦和はその後、広島から「ミシャの息子たち」を次々と獲得するようになります。柏木はすでに移籍していましたが(09年のオフ)、12年に槙野、13年に森脇、14年に西川(周作)と李忠成。そのことを快く思わないサポーターもいたように感じるのですが?
杉浦 これはいろんな見方があると思うんですけど、ミシャが浦和の監督になって、広島から直接獲得した選手というのは、森脇、西川、石原(直樹)の3人だけなんですよね。槙野はケルン、李忠成はサウサンプトンを経由しています。実はメディアが、浦和と広島の対立の構図を煽っていた部分もあったんじゃないですかね。
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