浦和レッズについて議論するページ

浦議辞書:ま行

負けないよ

02年福田大将のグランパスエイト戦@埼スタ勝利後のお言葉である。

その後レッズは連敗街道まっしぐら!orz 当時の浦議で「負けないよ」はしばらくは禁句となった。

この発言は2002年セカンドステージの名古屋戦に延長Vゴール勝ちした後のヒーローインタビューでなされた。福田が決めたのは同点弾。Vゴールはエメルソンである。 当時の浦和はオフトのオールコートマンマーク戦術による堅い守備をベースに、エメルソントゥット永井のFW3人の高速カウンターで得点するという戦術がようやく浸透して来た時期で、この名古屋戦で7連勝だった。 ちなみにこの発言はインタビューアーの質問に対してのものでは全くなく、劇的Vゴール勝ちに興奮冷めやらぬ福田が開口一番発したもので、福田はのちに発言の本意は「そう簡単には負けないよ」という気持ちからだったと述べている。しかし、全てのレッズサポーターは(ナビスコカップ決勝の直前という事もあり)「浦和レッズは負けないよ」と福田が語ってくれたと大いにもりあがった。しかしこの名古屋戦以降は浦和の戦術が研究され、特にFWエメルソンを徹底的に押さえる攻略法を取られると2002年シーズンの快進撃は終わってしまった。


マリッチ

:uragidictionary:t_maric_1_.jpg

在団時背番号18 トミスラフ・マリッチ、愛称トミー。元クロアチア代表FW。
05年エメルソンの電撃移籍の補充として後半戦からポンテと共に浦和加入。

クラブは当初、当時アルゼンチンリーグ得点王だったエストゥディアンテスのウーゴ・マリアーノ・パボーネの獲得を目指したが、ギドがドイツでよく知るトミーの獲得を望み入団となった。

しかし来日後にも「最終テストを受けての入団」と当初からクラブの彼に対する扱いはシビアだった。
ドリブラー型FWが多かった浦和では初のタイプとなるボックス内の仕事師FWだったが、
加入当初は中々周囲とフィット出来ずに苦しんだ。

またナビスコ杯準決勝のジェフ戦でストヤノフの悪質なヒジ撃ちにより頬骨の陥没骨折という大怪我を負ってしまい、チームから一旦離脱を余儀なくされた。
結果、マリッチがようやくチームにフィットしたのはリーグ戦も最終盤の時期となり、残念ながらクラブは彼との契約更新は行わない決定を下す。
しかしマリッチのFWとしての真価は正にこの後に発揮された。解雇の決定を受け入れてなお、この年最後に残ったタイトル「天皇杯」に全試合出場し全て得点するという偉業をやってのけ、浦和レッズとしての天皇杯初優勝と翌年のアジアチャンピオンズリーグ出場権獲得に大いに貢献した。

その決勝の試合終了後、表彰セレモニー、選手の場内1周すらも終わった後もレッズサポーターは延々とマリッチコールを止めず、ついにロッカールームから彼を再びスタジアムに呼び戻して栄冠の歓喜をわかちあい、かつ別れを惜しんだ。
レッズ退団後のマリッチにJの他クラブから好条件のオファーがあったが、彼は「日本ではレッズ以外のチームには入れない」とこれを断り日本を離れていった。
在籍期間こそ短かったものの、今でも多くのサポーターに愛されている。

マリッチを一言で表すと「侍」


東京ヴェルディ1969の別称 チームカラーが緑だから!?

現東京ヴェルディ1969はJ開幕時「ヴェルディ川崎」と名乗っていた。前読売クラブ時代からブラジル路線をとっていたこのチームの名称を決めるにあたり、いくつかの候補にポルトガル語で「緑」を意味する「ヴェルデ」を使ったものが入っていたのだが、これをある役員が「ヴェルディ」と聞き間違えた時に「そのほうが語感がいい」と決定した。 緑はブラジル国旗の色であり、ブラジルサッカーに大いに影響を受けた読売クラブの名称としてはふさわしいと。 ちなみにこの「ヴェルディ」の名称誕生の産婆的役目を果たしたのが、93年~00年まで浦和レッズで強化担当―チーム管理担当―海外スカウト担当―GM補佐をつとめた(つまりオジェック監督の招聘やバジールボリを入団させた)佐藤英男さんである。


室井市衛

:uragidictionary:muroi.jpg

浦和出身のDF
浦和市立田島中→武南高校→鹿島→浦和→セ大阪→浦和→神戸→横浜FC
J2に落ちた時、親友の阿部敏之と一緒に浦和に移籍してきた
空中戦に強く、CKでは室井コールがされる事も多かった。
2002年のナビスコ杯決勝では、パワープレーのためにFWとして投入された事もあった。
J2最終節でのあのレッドカードは忘れることの出来ないプレーである
浦和での記録
J1リーグ・・・46試合2点
J2リーグ・・・23試合1点
ナビスコ杯・・・21試合

2007年シーズンをもち15年間のプロサッカー選手としての現役引退。
浦和レッドダイヤモンズアカデミーセンターのスタッフとして、新たに指導者への道を歩む予定。
J1通算 112試合4得点
J2通算 23試合1得点
ナビスコカップ 56試合1得点
天皇杯 21試合3得点


京都サンガFCの愛称ユニホームの色が紫だから、嘗ては専用スタジアム構想もあったのだが今は無かった事になってるらしい
降格と昇格を繰り返すJのエレベーターチーム、その為J1やJ2では無くJ1.5の方が相応しいと思う


モリツァ

現在サンフレッチェ所属のDF盛田剛平選手のあだ名。
99年浦和入団時は大学NO1の大型センタフォワードというふれこみだった。
「利き足は頭」と自負する盛田に自身も現役時代ストロングヘッダーだった監督のも大いに期待し、
過剰なほどの起用のチャンスを与えたが全く応えられず、この年のJ2降格の戦犯の1人となってしまう。
結果的には浦和在籍時にはリーグ戦、ナビスコともにノーゴール。2001年に川崎移籍。
以後C大阪、川崎、大宮を経てサンフレッチェ広島に入団、後日FWからDFにポジションチェンジした。
それなりに活躍し、FW時代にはどうしても出来なかった得点も、ポジションを後方へ移した後決めている。
現在も広島で、オーストリア代表選手とのポジション争いに勝ち、左ストッパーのレギュラーの地位を守っている。

モリツァのあだ名は彼よりも後にレッズに来たクビツアからのもじり。
「同じ電柱系FW」ということでつけられたらしい。(同種のあだ名には梅田のウメツアがある)
盛田は現役引退後には「ラーメン屋の店長」の希望があるらしく、オフシーズンに体験修行をしている。
( http://www.j-league.or.jp/csc/topic/00000009.html )


森孝慈

浦和レッズ初代監督。93年のぶっちぎり最下位の責を負い、その年辞任。
アビスパで監督、マリノスでGMを経た後、2002年からレッズのGMに就任した。
日本代表監督の時から極めて人望があつく、監督としての彼の成績は良くなかったにもかかわらず、レッズサポーターには愛されている。

監督のコールがあったのもこの人のみ。
「森カンペオーン」コールがそれで、一時福永に流用されたのち、現在は森カンペオーンの部分がウラワレーッズになっている。
助っ人外人にもその卓越した「お人柄攻撃」を炸裂させ、アルパイを赤提灯に誘い「日本びいき」に瞬く間に変えてしまった。


水内猛

テレ玉金曜日22時~『GGR』の司会者

女子アナ(TBS 小倉 弘子)をゲットしたことで、川渕氏から誉められたらしい。


モラレス


盛田剛平

モリツアを参照

 
uragidictionary/ma.txt · 最終更新: 2009/08/28 12:37