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今回、宇都宮徹壱WM編集部の許可を頂き、有料記事の一部を転載させて頂きます。



「ミシャ・サッカーの継承者」として想うこと 杉浦大輔(通訳・指導者)インタビュー<1/2>(宇都宮徹壱WM)


「昨日の上海(上港)戦はスポーツバーで観ていましたね。後ろのほうには浦和のサポーターがいました。たぶん『あれ?』って思ったでしょうね(笑)」

 声の主は、浦和レッズのミハイロ・ペトロヴィッチ前監督の通訳だった、杉浦大輔さんである。お話を伺ったのはACL準決勝のファーストレグ、上海上港対浦和(1-1)の翌日。浦和を離れて2カ月が経っていたが、古巣への思いは今も変わりない。いやむしろ、より高まっているような印象を受ける。

 杉浦さんはサンフレッチェ広島で6シーズン(06年6月~11年)、浦和で6シーズン(12年~17年7月)、合計12シーズンにわたりペトロヴィッチ監督の傍らで通訳を続けてきた。クラブが変わっても通訳が同じというケースは、Jリーグでは決して珍しい話ではない。しかしながら12シーズンにわたり(しかも途切れることなく)、通訳という激務を続けてきたのは杉浦さんをおいて他にはいないだろう。

 言うなれば「ミシャ(ミハイロ・ペトロヴィッチ氏の愛称)を最もよく知る日本人」である杉浦さん。そんな彼を今回ゲストに招いたのは、「ミシャが日本サッカーに何を残したのか?」という疑問がきっかけであった。確かにミシャ自身、日本でのタイトルには恵まれなかった(唯一のタイトルは16年のルヴァンカップのみ)。しかし、彼が去ったあとの広島はリーグ優勝を3回果たし、浦和は今季のACLで決勝に進んでいる。

 もちろんそれらの功績は、森保一監督(当時)や堀孝史監督の指導力に負うところが大きいのは事実。しかしながら、彼らがまったくミシャの恩恵を受けなかったかといえば、それは明らかに否であろう。果たしてミシャは広島と浦和に、さらには日本サッカー全体に何を残したのだろうか。10年ぶりのアジアの頂点に、浦和があと一歩に迫った今だからこそ、杉浦さんの肉声から探っていくことにしたい。(取材日:2017年9月28日@東京)

<目次>
*ミシャと一緒に浦和を離れた理由
*きっかけはアルバイト感覚の通訳
*可変式3バックの誕生と「ミシャの息子たち」
*なぜ広島から多くの選手を獲得したのか?
*「ミシャ・サッカーが凝縮された」ラストマッチ
*今こそ再評価されるべき「ミシャの功績」

■ミシャと一緒に浦和を離れた理由

――7月30日、杉浦さんがペトロヴィッチ監督と共にチームを去ることになって、早いもので2か月が経ちました。広島時代からずっと、通訳兼コーチとしてチームに帯同していた生活ががらりと変わったと思いますが、もう慣れましたか?

杉浦 何もない日常に慣れるのは、やはり時間がかかりましたね。最初の頃は朝7時にバチッと目が覚めて、「ああ、練習に行かなくていいんだよな」という(苦笑)。TVで試合を見ていても、自分があの場にいないのが不思議な感じで。試合に向かっていく1週間の流れから開放されて、それまであった緊張感が今は一気に緩んだ感じです。

――今回、ミシャさんと一緒に浦和から離れることになったのは、ご自身の判断でしょうか、それともクラブ側の判断?

杉浦 それに関しては、監督がチームを去るのであれば、僕も一緒に辞めるべきだと考えていました。監督は「大輔はチームの力になれるから残ったほうがいい」と僕にもクラブにも言ってくれたのですが、自分としては一緒に去るつもりでしたし、クラブ側もそういう判断でした。それに僕を残してしまうと、次の監督さんもやりにくかったと思いますし。

――ミシャさんはすぐ帰国されたのですか?

杉浦 8月に入ってすぐ帰られましたが、もうすぐ再来日されるのではないかと思います。電話では毎日のように連絡を取っていますが。

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